▼「基本的人権は奪われうる、当たり前のものではない」的言説は主に権威主義国家の様相を指して取り上げられることが多いが、最近改善を訴える声が少なくない精神科医療による「措置入院」もその1つと言っていいだろう。自傷他害のおそれがあると精神科医が判断した時には、「都道府県知事の命令で」精神科病棟への強制入院を行うことがある。筆者も病弱につき医療の現場を見ることが多かったが、
患者「早くここから出してよ。刑務所みたいじゃない」
看護師「あなたは県知事の命令でこの病棟に来たので、退院請求も公の審査が必要となっているんですよ」
患者「そんなこと私は一言も聞かされてないわよ」
看護師「だから医療と行政が判断したんです」
というやりとりは頻繁に見た。理不尽だと怒っているうちは退院できず、そのうちにすっかり病棟の暮らしに慣れ切ってしまい、いざ出られるとなった時も「身よりもないし、ここが快適だからいいのよ」となってしまう光景もあった。安部公房『砂の女』が恐ろしいほどシンクロする。
▼もちろん「統合失調症」「自閉症スペクトラム」などという言葉で括ればいい時もある。引きこもった挙句、暴力を振るいかねなくなった家族の不幸が、科学である医療と再現性のある対症療法のメスが入ることで、投薬などにより解決するケースもある。文明国における科学による成果と誇る一方でそこにはなんの「個別」もないとの愚考がつきまとう。
▼2019年に京都府で起きた「京都アニメーション放火殺人事件」は、36人死亡・34人負傷(犯人含む)と明治以降の犯罪史上最多となる犠牲者数を出した事件となった。本書は実質上の3部構成となっており、①当日の被害の様子と犠牲者の喪、メディアスクラムの様相②実行犯・青葉真司の犯行に至るまでの半生③公判の進行と、青葉被告との面会に踏み切った遺族の葛藤 で組み立てられている。
「みんな希望と誇りを持って、仕事をしていた。それぞれの名前を持っていた。われわれ残った者ができることは、毎日頑張っていたんだ、ということを多くの人に『覚えていてください』と言うことしかない」 負傷者の中には生死の境をさまよう人がいた。この日までに公表されたのは、犠牲者35人の実名だった。父親は、対面する記者たちの目をしっかりと見つめて、声に力を込めた。 「息子は決して35分の1ではない」
▼一方で、遺族の対応も一様ではなかった。風化するという言葉を使いがちですが、と前置きした記者に向かい「なんで風化させてくれないの。晒しものになるだけじゃない。よう言うわ」と語った遺族もいた。府警は「実名報道断固拒否」「故人の写真も載せないで」と報道各社に伝え、京都新聞は取材班内での議論の末に生きた証を伝えるべく、事件の約1ヶ月後に犠牲者全員の氏名と、語られた人となりを見開きの紙面で公開した。だがこれは恒例ではなく、相模原市における障害者施設襲撃・殺人の「甲A」のような匿名表記してほしいという希望もあった。
▼「個別」が揺らぐのは被害者遺族に対する報道だけではない。大火傷の治療が終了した段階で逮捕された青葉真司被告の半生にも取材の手を及ばせた。学校では明るく柔道部で体格も良い、ただし家庭では両親の離婚などで父親が肉体的虐待を行うようになり、そのせいで学校に行くことがなくなった。フリースクールを経て定時制高校を四年で卒業し、音楽の道に進むも専門学校を新聞配達奨学生との両立困難で中退し、職を転々、前科2犯で収監歴もつき、それでも小説で新人賞を取る一発逆転の夢に賭ける。報道陣は青葉被告の半生に言及して「クラスには必ず一人こういう奴がいた」と語る。
▼だが、青葉被告は個別化された悪人と直ちに断定はされなかった。2ちゃんねるへの書き込みなどから「恋心を抱いた京アニの女性監督の発信に、自分への秘めたメッセージが込められていると思った」という妄想があったことが明らかとなり、「直接の動機は、応募して落選した小説のアイデアをパクられたと思ったから」としている。統合失調症の症例として青葉被告は凡例に回収され、裁判では刑法の「心神耗弱による無罰または減軽」が争点となった。結果、一審での判決は「犯行前には実行をめぐって逡巡していたプロセスがあり、心神耗弱には当たらない」と検察側の求刑通り死刑を宣告した。
▼精神疾患を含んでいたで済むのか。裁判では、遺族が台に立って青葉被告に語る光景もあった。「あなたの人生で苦労が多かったのは理解できます。でも、あなたの行為で人生に困難を抱えてしまった人が何十人と増えたことは理解してほしい」と、家族内では被告を「青葉さん」と呼ぶことで幼い息子に怨恨を増幅させないようにした犠牲者の夫が語った。青葉は最後になって「申し訳ない」との言葉を発した。
▼その後、夫は青葉との面会が許可され、「ありのままを聞かせてください」と伝えた。青葉被告は一気に陰謀論か何かを捲し立てて、規定の時間はすぐ終わりに近づいた。「僕が言ったことも、鑑定医は妄想にしてしまうんです」 次に面会が許された際は「人生にどんなものがあれば犯行には及ばなかったと思いますか」と夫は尋ねる。インタビュー取材のように話は進行していくが、青葉は「小説家になろうサイト」で読者が何人かついていくれれば、と答える。そして夫へ、「本当に申し訳なかったです」と深々と頭を下げた。青葉被告なりに裁判に真剣に向き合っていたと感じた夫の整理で裁判のルポは締め括られる。
▼全体を読んで印象深かったのは「凡例」と「個別」の衝突である。遺族だって裁判で思いを伝える者が全てだったわけではない。「青葉を憎むのは同じ土俵に乗ること」とついぞ公判に足を運ぶこともなかった遺族もいた。被告の弁護団は議論の一般化という戦略を取ったのかは不明だが「そもそも人の命を奪う死刑が妥当なのか」と提議しもした。犠牲者にはそれぞれの生があったことが忘却されていいのか、と語る裁判に関わった遺族とは、真っ向から対立する形となった。
▼なぜ人を殺してはいけないのか。「二度とは生まれてこない命だから」「ダメだからダメで何か問題あるのか」と多くの解釈を聞いたが、個人的に納得したのはこの医療マンガでの「その人が出会い関わる人たちの無限の樹形図を奪うから」だった。一方で、その医療は個別の苦しみを「症状」と凡例化して救うという矛盾も抱えている。法も概ね同じだ。個別の物語が「単なる承認されない愚痴」となってしまった苦しみは筆者も経験しているし、筆者だってこうなってもおかしくなかった。だが現時点において、法治国家以上の統治システムが発見されていない以上は、個人の熱情や物語が法理によって解体されて凡例化されるしかない。それができなければ、人を殺してはいけない以前の武力制裁と自力救済の世に逆戻りだろう。
▼本書は最後に死刑制度に関する是非をめぐって「個別解」の紹介を設けている。親族を殺された遺族が確定死刑囚となった犯人と文通を行い、最終的に「被告人の死刑執行取り下げを願う」運動を開始するが、先にその時が来てしまう。しかし、京都アニメーション放火殺人事件がそのような事態に進展するとは思い難いし、青葉死刑囚の罪は絶対に許されるものではない。「個別」と「凡例」とのせめぎ合いは、時に想像以上の苦痛と再現性の欠如の中で成り立っていることは、これからその道に進む者(あるいは、明らかに関係のない?道に進む者)が心して見ておかねばならない光景だろう。